院長紹介
医師 平井 今日子
S36年3月31日、バルナバ病院で出生、蒲生4丁目で小学校1年まで過ごす。天満幼稚園、聖賢小学校から、小学校2年で寝屋川に引っ越し、聖母小学校に入学、近畿油化株式会社を経営していた父のもとで会社というものを知り、企業を敬遠し中学2年の時に医者になることを決心し、中学3年で寝屋川第六中学校へ転校、大阪市立高校から、YMCA予備校土佐堀校へ入学し、1年の浪人ののち近畿大学医学部に入学。大学の5年の時に、救命救急への入局を決めるも医局が出来なかったため第1外科へ入局、あこがれは蒲生4丁目にあった診療所の先生で、興味があったのは、心療内科と死学、戦場でも役に立つ医者になりたくて、救命救急を志望。第1外科ではその当時少なかった乳癌診療を勧められ、博士号は乳癌の複合内分泌療法で取得。
略歴
昭和61年3月 近畿大学医学部卒業
昭和61年5月 近畿大学第一外科入局
昭和62年12月 近畿大学救命救急センター
昭和63年4月 PL病院外科
平成1年4月 近畿大学第1外科
平成5年4月 泉北陣内病院 外科
平成8年3月 暁美会田中病院 外科
平成12年4月より 平井医院(継承)
平成12年12月より 近畿大学外科非常勤講師
平成22年10月 ひらいクリニック開設(南船場 大阪農林会館半地下)
平成30年3月 ひらいクリニック閉院
過去のアルバイト先:羽曳野藤本病院、河内長野岡記念病院、八尾貴島病院本院、大阪狭山市樫本病院、堺市ベルランド病院、堺阪和記念病院
資格
日本外科学会専門医
医学博士号(医甲第157号)
日本糖尿病協会療養指導医
日本医師会認定産業医
労働衛生コンサルタント
所属学会
日本外科学会
日本糖尿病学会
JAL DOCTOR登録
ANA Doctor on board登録
起業
平成21年8月 ジィメディカル株式会社設立(IT関連企業)
趣味
スノーボードインストラクター(52歳で取得)、スキー、サーフィン、音楽、バンド活動、書道、料理・パン・お菓子作り、DIY
書道で書家の資格を取りました
バンド活動(現在休止中)
免許
普通自動車、中型2輪、1級船舶、アマチュア無線、着付師範
東京書道研究院 漢字科 四段 仮名科 四段
日本教育書道連盟 漢字科 準三段
過去に勉強したもの
統計学、簿記、シスアド、Illustrator、FileMaker、Office
愛車
ホンダ CR-Xデルソル
なんと20万キロ突破しました!!
彼の顔とイタリアンレッドに恋をして20年以上を共に過ごしてきた今日子先生の相棒。(byスタッフ)
持病・既往歴
反応性低血糖症
左下顎骨部分切除後インプラント挿入
正常圧緑内障
脳MRI:全く問題なし(教科書レベルのきれいさだそうです)
2012年1月23日 第一腰椎破裂骨折
両親
父親は最終学歴が中学、一からのたたき上げで、30歳ごろ起業、
全国に支店を出し数十人の社員を抱える企業を経営していました。
ザーレンオイルと言うエンジンオイルの販売をしていましたが、
当時としては珍しく、ボトルキープの方式をとっていました
オーストラリアから、ポンプも輸入して販売していたようです。
まだ、沖縄が返還される前のことなので、珍しかったと思います。
平成10年、心筋梗塞で突然死しました。
母親は最終学歴が尋常小学校、戦争のため進学はできなかったようです。
両親の残した一軒家で住み、アンプルを製造する職人をしていたようです。
まだ、起業していなかった父親が住みつくようになって結婚、
その後、起業を手伝っていたようです。
読み書きは、いまだにできませんが、英会話ができるようになりました。
クリニックは内部を公開していませんでした。みんなの心の中で存続していくと思っていたからです。でも、閉院後だからその一部を公開します。
5周年のパーティは大森海岸松乃鮨、シェ和田、石窯バール decoreのご協力のもとクリニックの待合室で行いました
内装のコンセプトは”昭和初期”でした。医療を昭和初期に戻そうという考え方からです。机と聴診器だけでいいじゃないかって思っていました。
内装には使える状態の足踏みミシン(マスザワミシン)、伝統的な家具としてイチマツ家具、畳は岸和田の久保畳店より提供、待合の椅子はくぎを使わない手法で和歌山の谷村家具製作所に作成していただきました。床には本物のペルシャ絨毯をひいていました(ペルシャ人の友人がいたからです)。本物を知ってほしいと思い、内装にもこだわっていました。
待合は銭湯の脱衣場のイメージを持っていました。年齢を超えての交流の場になってほしいと思っていました。スタッフの子供が走り回り、高齢者と若い患者さんが混在し、ニュージーランドの友人がギターを弾いているような場面もありました。友人のミニコンサートの前座で、書道のデモンストレーションや振袖の着付けのデモンストレーションもしました。日本の伝統を海外の人より、日本人に知ってほしかったのです。医学の勉強会も何度も行い、新人画家の作品も展示していました。いろんな可能性を待合で、模索していたのです。